歴史 History

<統一王朝成立前>  

1353年にラーオ族による統一国家ラーンサーン王国が出現するが、それ以前から民族としての活動は盛んであった。ラーオ族の発祥はアルタイ山脈の麓あたりと言われており、そこから年代を経ていくにつれて南下していったとされている。紀元前5000年頃には黄河・揚子江あたりにいてゴビ砂漠に興った漢民族に押し出される形で現在の四川省近辺に都市国家(ムアン)を作った。(西安にムアン・ルン、重慶にムアン・バー、長沙にムアン・ギャオ)

 

これらの都市国家は中国と長い間抗争を繰り返し滅ぼされてしまった。その後数世紀の間ラーオ族に関する記録は見つかっておらず、7世紀頃に6つのムアンが雲南省の大理盆地に建国されている。これらのムアンを六詔と称する。この中の最大のムアンの支配層のムアン・スイは後に六詔を統一して729年に南詔を建国した。しかしその後、902年にクーデターにより滅亡してしまった。これを機にラーオ族の大移動が始まり、インドシナ半島、ビルマ、アッサムなどでムアンを形成した。

 

各地で独自の発展を遂げ、タイ北東のチェーンセンのグループは後にチェンマイ王国、スコータイ王国を建国した今日のタイ王国を形成していったタイ族の父祖グループで、メコン川上流のスワーのグループはムアン・スワーラーンサーン王国を建国した今日のラオス人民民主共和国の父祖グループと位置づけられるなど、民族の分化がこの頃より始まった。

<統一王朝の成立とその発展>

1353年にファー・グム王によって建てられ、支配領域はメコン川流域からコーラート台地までで広げた。16世紀後半にビルマの侵攻を受け、首都をヴィエンチャンに移したが、最終的にはビルマに占領された。その後、王朝は17世紀初頭にビルマの支配を克服し、スリニャ・ウォンサー王の時代には上座部仏教を始めとする文化・文芸の隆盛期を迎えた。

 

18世紀初頭になると、王朝は王位継承を巡って内紛状態となり、王位継承者が統治するルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国、チャンパーサック王国の三国、及びシエンクアーン王国の4つに分裂した。これらの諸王朝は対立・抗争を繰り返しながら徐々に弱体化し、1779年に三国がシャムの宗主下に入ることでラーンサーン王家の独立は終焉した。

 

シャム領下に入ったが、王朝が変わったり、政権が変わったりしてあまり三国に関われなくなったので、三国に大幅な自治権を認めた。

 

<フランス植民地時代>

19世紀後半になると、ヨーロッパ列強がアジア各地を支配していった。1885年、清仏戦争の結果清はベトナムに対する宗主権を失う。フランスはすでに1863年にはカンボジアを保護国化しており、植民地化の標的をラオスに定めた。1905年には保護国化を完了し、フランス領インドシナを完成させた。

1940年11月にタイとフランスの間で仏印国境戦争がおこり、タイは対仏宣伝の一環として対ラオス工作を開始した。ラジオ放送や宣伝ビラなどを通して「ラーオ人もタイ人も元々は同じタイ系民族である」という民族同胞性を強調することによって、抑圧者フランスとの共闘を訴えた。これに対抗してフランスがとった政策はラオス刷新政策であり、教育制度を充実して小学校を各地に新設した。「勤勉・家族・祖国」をスローガンに「母なる祖国・フランス」への奉仕が説かれた。この頃ラオス人のなかに「ラオス」という祖国・国民を構想するものが現れてきた。

 

第二次世界大戦中、日本占領下の1946年にラーオ人の民族主義者によってフランスからの独立が宣言された。日本の敗戦後、ラオスの独立宣言を撤回し、独立派はラオ・イサラ(自由ラオス)を結成し、臨時政府を樹立した。しかし、19464月には再びフランス軍がラオスを制圧し、第一次インドシナ戦争が起きた。ラオ・イサラはタイに亡命政府を樹立した。

 

 

<ラオスの独立>

1949719日フランス・ラオス協定で名目上ラオス王国は独立したが、フランス連合内のみに限られ、外交・国防の決定権はフランスが握っていた。一方、ラオ・イサラ亡命政権は親仏派とベトミン共闘派に分裂した。右派はフランス支配下のラオス王国政府に参加し、親フランスのピブン政権を発足させた。一方、左派のスパーヌウォン王子らは19508月、パテート・ラーオ政府を樹立し、抗仏闘争を宣言した。1951年にはカンボジア、ベトナムのホー・チ・ミン一派の抗仏組織らと「インドシナ合同民族統一戦線」を結成、対仏ゲリラ闘争を開始した。

ベトナムおよびラオスのこうした状況から、フランスは植民地支配の終結を判断。19531022日にラオス王国は完全独立した。

 

 

<ラオス内戦・ベトナム戦争からラオス人民共和国成立へ>

ラオスは世界大戦後にスワンナ・プーマ殿下らの中立派、チャンパーサック王家のブン・ウム殿下らの右派、スパーヌウォン殿下およびのちのカイソーン首相らの左派に分かれていた。連合政府を建てようと何度か試みた後に、最終的にヴィエンチャンで「三派連合政府」が成立した。196012月にはベトナム戦争がはじまり、ラオスは通り道となるので隠れた交戦場となり、大きく被害を受けた。

 

ベトナム戦争は北ベトナムの勝利で終結し、1975122日ルアンババーンで開催された全国人民代表会議において、スパーヌウォン最高人民議会議長兼大統領を頭に置くラオス人民民主共和国が成立した。

ラオス王国からラオス人民民主共和国への移行はさして衝突もなく行われたことから「静かなる革命」と呼ばれる。しかし実際は成立後23年経済や行政は混乱状態に陥り、麻痺していた。そこで政府は1976年からヴィエンチャンとルアンババーンに国営商店を開設、物資の退蔵、価格操作の禁止の法案、配給制度を実施した。同年615日には通貨改革を行い、少しずつではあるが経済状況は改善されていった。1977年にはベトナムとの間に「ラオス・ベトナム友好協力条約」が締結され、ベトナムより国家建設に必要な資金援助や文化・教育・技術などに関する専門家派遣が受けられる体制が整えられた。同時にソビエト連邦や中国との関係強化にも着手し、両国間の全面協力体制樹立に向けての共同声明を発表するなどの成果を挙げている。

1979年からはさらなる経済活性化を求め、「新経済政策」が閣議決定され、自由主義経済原理を導入し、インフレーションの抑制を行った。新経済政策の効果は覿面で、1980年にはラオスの米の生産量が初めて100万トンを突破した。

1980614日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生し、1984年にはラオスのサイニャブリー県とタイのウッタラディット県の狭間に位置するラオス領の三つの村をタイ国軍が不法に占拠していると発表し、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイ政府は同年1014日国軍が撤兵した旨の声明を発表し、騒動はいったん沈静化したが、本件は1988年に両国代表団による和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた。

 1991年に大統領の権限を拡大する憲法が制定され、カイソンが大統領となった。その翌年カイソンが死去すると、プームサワンが新大統領に就任した。プームサワンと、ラオス人民革命党書記長のシパンドンの新体制は、カイソン政策の継承を表明した。 1996年の人民革命党の全国大会で、党人事の大幅な変更が行われ、経済開放政策の行き過ぎに対する抑制が、図られた。また、1997年から、ラオスのASEAN正式加盟が承認され、ミャンマーとともに正式に加盟した。ついで、1998年にはASEAN自由貿易地域(AFTA)に参加し、2008年までに、関税の引き下げを実施することにもなりました。現在の大統領はトーンシン・タムマヴォンである。

参考:Wikipedia

        http://withyoume.seesaa.net/archives/20120307-1.html